Common sense

Common sense 日本語では常識というらしい。常識を疑えと何度も聞いたことがある。そもそも常識とは何なのか?そしてどう疑うのか?を誰からも教えてもらってないかもしれない。「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」(アインシュタイン)の名言のように偏見の塊でしかないとすれば、

まずは

  • 自分自身の常識(自分や家族など)
  • 社会の常識(生まれ育った地域の常識)

最低でもこの2点から考える必要がありそうだ。常識というのは「あたりまえ」とほぼ言い換えることもできる。今あなたが部屋にいるなら物の置き場所、つまりいつもの場所(定位置)があるはずだ、そこにあるのが「あたりまえ」で「疑うことすらしない何か」それこそが「常識」なのだ。同様に身の回りにあるすべての物の配置、あなた自身や家族のいる空間…生活環境そのものが作り出す質感(クオリア)がいつの間にかあなたの感覚になじみ切ってしまっているはずだ。生活導線に従って微調整を繰り返しながら今の環境が出来上がった。すこし思い出してほしい、あなたがその部屋に初めて入った時(引っ越し直後とか)何もない部屋から始まり、いつの間にか「あたりまえ」の部屋が出来上がってしまった。座る場所、家具の配置、……何もかもが「考えることなしに自動的にセットされている環境」これを疑うのが「常識を疑う」ということにつながる。つまり常識を疑うとは「この常識がどのような経緯で出来上がったのか?そしていつから始まったのか?」を再確認する作業だ。

個人的な常識を再確認するのは(疑うのは)自己の体験そのものなので内省的に確認できる。さて問題は「社会の常識」である。日本の常識と他国の常識がまるで違うのは外界との交流を一切遮断している人以外ならだれでもわかることだろう。日本の常識でも地域差がある、当然時代差もある、つまり「常識は時と場所で変化する」これを決して忘れてはならない。常識をを疑う際に一番厄介なのが「自分が生まれる前」の常識の変化をどう再確認するかだ。歴史は「為政者の都合の良い物語」、口伝による言い伝えも捩れている、ならばどのようにして再確認することができるのだろう?

少し現実的な?社会課題として、人類史上初めての超高齢国家最前線の日本における視点を2つだけ上げておくので皆様も考えてみてほしい。

  • 延命治療で寝たきりでも生きることは良いことなのか?
  • 経済発展をし続けるのは良いことなのか?

ではでは、Enjoy your life !!

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