変わらない物理世界と、肥大化する電脳世界の中で

思想 / エッセイ

便利になった私たちは、なぜ幸せに近づけないのか

いつからだろう。私たちの目の前にある「現実」が、まるで時間が止まったかのように変化を止めてしまったように感じられるのは。

振り返ってみれば、2000年、あるいはどれほど引き延ばしても2010年あたりを境に、物理世界(リアル)の景色はほとんど変わっていないのではないか。街を走る車の形も、住まう家々の佇まいも、基本的にはあの頃のままだ。せいぜい冷蔵庫や洗濯機といった家電のスペックが少し向上し、省エネ性能が上がった程度。私たちが肉体を持って暮らすこの物理空間は、実のところ、驚くほど静かに凪(なぎ)を保っている。

しかし、その一方で、私たちの頭上を飛び交う「電脳世界(インターネット空間)」は、目まぐるしいほどの激変を遂げた。かつてはパソコンの前に座り、ダイヤルアップの接続音を響かせて恐る恐る足を踏み入れていたネットの海。それが今や、ポケットの中の高性能なポータブルデバイスを通じて、24時間いつでも私たちの意識と地続きになっている。それどころか、いまやインターネットの深淵ではAI(人工知能)が自律的に動き回り、膨大な情報を編み直し、私たちの思考の先回りをしている。

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気づけば私たちは、一日の大半をその小さなガラスの画面を見つめて過ごすようになった。指先ひとつで世界中の知識にアクセスし、あらゆる手続きを瞬時に終わらせる。確かに、世界は圧倒的に「便利」になった。

だが、私たちはその便利さと引き換えに、本当に「幸せ」になったのだろうか。

便利さを追求し続けた結果、私たちは生身の身体が本来持っているはずの「センサー(感覚器官)」を、少しずつ退化させてしまっているのではないか。そんな危惧が頭をよぎる。

センサーが鈍っていく

冷たい風が頬をなでる瞬間の心地よさ、土の匂い、夕暮れ時の光のわずかな移ろい、他者と対峙したときに五感で察知する空気の機微——。かつて、私たちの生存と地に足のついた幸福感を支えていたのは、こうしたリアルな身体感覚だったはずだ。

電脳世界という超効率的な空間に意識を没入させる時間が長くなればなるほど、私たちの生身のセンサーは出番を失い、ゆっくりと、しかし確実にボケていく。情報の濁流に脳をジャックされ、感度の鈍ったセンサーからは、日常のささやかな機微を捉える微弱な信号が出力されなくなってしまう。

イヤホンで耳を塞いで歩く。食事をしながら画面をスクロールする。会話の途中でスマートフォンを取り出す。いずれも「悪いこと」をしているわけではない。ただ、私たちはその都度、目の前の物理世界から意識を引き離し、センサーの電源をそっと落としているのだ。

幸福感とは、頭で計算して弾き出すものではない。それは、研ぎ澄まされた身体のセンサーが、この物理世界から受け取った「生の実感」を、心へと静かに翻訳したときに初めて立ち上がるものではないだろうか。

便利さと幸せは、別の軸にある

ハーバード大学が75年以上にわたって続けた「成人発達研究」は、人生の幸福感にもっとも強く相関するのは「富」でも「名声」でも「情報量」でもなく、「良質な人間関係」だと結論づけた。そしてその関係は、テキストのやり取りや数値化されたつながりではなく、身体を持った人間同士が空気を共有し、五感で互いを感じ合うことから育まれる。

インターネットは確かに、私たちに「つながり」をもたらした。だがそれは、センサーを使わなくても維持できるつながりだ。画面の向こうの相手の体温を感じることも、沈黙の重さを肌で知ることも、目が合った瞬間に走る微電流のような感覚も——そこにはない。

便利さを追えば追うほど、身体のセンサーを使う必要がなくなる。センサーを使わなければ、生の実感は薄れていく。生の実感が薄れていけば、幸福感の土台は少しずつ浸食される。これは因果律ではなく、静かな相関だ。気づいたときにはもう、ずいぶん遠くまで来てしまっている。

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足元に転がっているもの

どれだけAIが進化し、ネット空間が豊かになろうとも、私たちの依って立つ場所は、この不器用で、重力があり、有限な肉体の中にある。

たまには画面を伏せ、深く息を吸い込んでみる。鈍ってしまったセンサーをもう一度、現実の風に晒して、チューニングを合わせ直す時間が必要なのかもしれない。難しいことは何もない。朝、スマートフォンを見る前に窓の外の空を見上げること。食事の味を、きちんと味わって食べること。誰かと話すとき、相手の顔を見て、声のトーンを聞くこと。

私たちの本当の幸せは、案外、2000年から何ひとつ変わっていないこの物理世界の、足元に転がっているのだから。

編集後記

このエッセイは、「便利さへの批判」を書いたのではありません。電脳世界の恩恵は、私も毎日受けています。ただ、「その恩恵に乗りながら、センサーをオフにしていないか」という問いを、自分自身に向けたくて書きました。

機能するセンサーを持ったまま電脳世界を使いこなす人間と、センサーを退化させながら情報の海を漂う人間とでは、同じ便利さの中に生きていても、見える景色はまったく違うはずです。どちらの足場を選ぶかは、結局、自分自身が決めることです。

ではでは、Enjoy your life!!