学力について考えてみた。(受験生を持つ親として?)
学力を数値化(主にテスト)する必要性、あるいはその数値で測定した結果を「評価」として使うことの価値を考えてみただけではあるが・・・
学力ってどんな「チカラ」なのか?
身体機能の握力とか、脚力と同じように「チカラ」の数値化をする必要があるのだろうか?またはできるのだろうか?あるいは、機械性能やその他のモノの「○○力」と同じように数値化する必要があるのだろうか?・・・
学校教育などの基本は「人として成長」するよう設計されているのか?(そうであって欲しいが・・・)
学力テスト等「試験」は概ね「知識力」であり学力というより「暗記力」のような気がする。
論理的に「考える」といっても論理を支える知識が必要なのは明白だ。とすると学力という言葉はどうも不適切で、試験日までの教育の結果、すなわち「知識蓄積量」の測定をしているだけではないのか?
学力とはそもそも「学ぶチカラ」なのでは?更に踏み込んで表現をすれば、「学びたい」この気持ちの強さが「学力」ではないのか?とすれば、数値化するのはナンセンスでは?更にその数値を「チカラ」として序列をつけているのは滑稽だ。また他人と比べる必要もないだろう。完璧には 同じと 言えないが、「食欲」「睡眠欲」「性欲」と似たようなものだ。 むしろ生理的欲求に近い・・・「まさか点数化して比較したり序列をつけたりはしないだろう(笑)
現在の義務教育現場はよく知らないが、「生徒だった」自分の経験からすると、
「より上手く生活できるように」という教育だったようだ・・・
本来は「よりよく生きるように」ではないだろうか?
親としてわが身を省みるなら、
「成績が悪くても、役に立つ人となれ」
「主体的であれば何をしてもOK、何をしなくてもOK」
と子供達に伝えている。果たしてどうなることやら・・・
ただ、逆説的な表現になるが、その結果現在の私が居るのだからなんとも言いがたい(笑)
「学欲」さえあれば、いついかなる場合でも学べる。
「万象ことごとく師なり」といったところか?
教育・・・
先生と生徒の関係、あるいは上司-部下、先輩-後輩、親-子・・・で「教える」「教育」するということがあります。「何」を教えるかはこのエントリーでは扱わないこ…