耐えることを努力とは言わない

私は「忍耐」「努力」「我慢」…みたいな言葉は聞いてるだけ(見るだけ)で疲れます。農業・漁業が主たる時代ならいざしらず、今の時代では「虚しさ」さえ感じます。賽の河原の石積みのような「無意味さ」に私は耐えられないです。

ゴールのない「頑張り」は時に人間性さえ崩壊してしまいます。まともな思考を失わせることを目的とするなら、それは洗脳という意味において上手く出来上がる事を意味します。そうなってしまっては「個としての独自性は完全に失われます」

個人的なゴールに向けて(組織なら、チームとして共有するゴールに向けて)一定期間活動することを努力とは言いません、これはゴールに向けての必須の行為であり、「当たり前」のことなのです。そして、そのゴールが「自分にとって価値があるからこそ楽しむ」ことができるのです。

義務として何かをする、好きで何かをする、喜んで何かをする

喜んで何かをする人は「努力」をしているとは言いません。そして、その成果は大きなものになるでしょう。夢中になって取り組んでいるのですから、まさに寝食を忘れて「楽しんでいる」はずです。この状態こそが「健全な状態」と言えるのではないでしょうか?

もしそうでないなら、社会の(あるいは会社の)システムがおかしいのです。そんな状態には秩序やルールがなくなるのではないかと言い出す人がいそうですが、不健全なままの秩序やルールが「まとも」だと言ってる気がします。そして、その人達は「自分は健全だ」というポジションにいるのでしょう。もちろんOKです。しかし、無理をしているなら自己正当化のために「努力とか忍耐」といった言葉を使わなくてはならないはずです。このような言葉が少しでも入り込んでくるならアウトです。

明日が来ることを誰も保証することができない

志半ばで倒れることもあるでしょう。しかし、価値あるゴールに向かって生きているならなんの未練もないはずです。さらに言えばプロセスそのものが価値があるのです。なにしろ嬉々として楽しみながらゴールに向かって邁進しているのですから!

「迷いなく、一心不乱に何かに取り組んでいるあなたの姿」は輝いているのではないでしょうか?この状態を健全と言わずしてなんと表現するのでしょう?

無目的に生きるのは難しい

悟りを開いた達人なら、「イマ、ココ」にあるだけでトータルに喜びを感じていることでしょう。しかしながら、多くの場合、達人の境涯にはないのでは? 幼い子供たちの無邪気さに「賢くなった大人達」はとても敵わないのです。賢くなってストレスをため、時に自殺までする大人は一体「何を」生きているのでしょう? だからこそ(達人ではないなら)、価値あるゴールを設定し、そのゴールに向けて日々過ごす事が必須です。もし、なにか「我慢」しているなら、明確な生きる目的や目標がないのかも知れません、今一度点検されることをおすすめします。

ではでは、

Enjoy your life !!

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA